西村秀一
独立行政法人国立病院機構仙台医療センター
臨床研究部病因研究室長・ウイルスセンター長
地域レベルでのパンデミックに対する準備は、われわれのような小さなボランティア活動だけで何とかなるものでは決してない。最終的には地方行政にその重要性を認知してもらい、住民のための「業務」として位置づけてもらって初めて実効性のあるものになる。その行政が動くためには、中央からの指示であろうと自主的制定であろうと法的裏づけが必要なのが現実である。後者のためには住民の強い要望が必要で、一朝一夕にできるものではないが、もしそれができるまでに認知が成熟した場合、どのようなものになっているだろうか。願望を込めて仮想条例の夢をみた。
歴史的にインフルエンザのパンデミックは、世界的レベルの災害であると同時に、地域社会に大きな被害をもたらしてきた。インフルエンザの専門家の間では、今後再びパンデミックが起きるのは、(ごく近い将来か否かの問題は別にして)確実であり、 時間の問題に過ぎないとされている。これまでの歴史をみれば、それらは常に世界同時多発的災害としての性格を持ち、地域社会は外部からの支援もないまま、ほとんど孤立無援の戦いを強いられてきている。このことは、今度もまた同じような状況下に置かれることを覚悟しなければならないということを意味している。もし、このような災害による被害をできるだけ抑えようとするなら、現代に生きる私たちは、これまで経験のない災害に対するこれまでやったことのないような対策を講じる必要がある。それは最前線で災害と対峙することになる地方白治体を単位とする地域独自の総合的戦略である。そしてそのために地域の人的・物的資源を動員する要件として、さまざまな法令の整備は欠かせない。地方行政が実際に何かをやろうとしても、法令なくして、人、物、お金は動かず、実効性のある対策はまず無理だからである。法とそれに基づく予算の執行、さらにはそれにあたる公務員の公正な業務の遂行も法的裏づけがあって実現する。しかし、そういった具体的な個々の法令の整備は別の機会に議論するとして、その前にもっと根本的な、感染症災害に立ち向かう理念があってしかるべきであろう。
地方自治体には、住民の健康・生命・財産の保護に対する責任がある。よって地方自治体には地域住民等しく危機に曝す可能性の高い新型インフルエンザのパンデミックという大災害に対して、対策を立案し準備を行う責任がある。まず、この責任の所在を明確にすることが最初に必要である。次に、いくら地方行政が頑張ってみたところで、住民の防災(ここではあえてパンデミック対策を防災という言葉で表現した)意識レベルの向上と彼らの積極的な協力、その他の関係する諸組織や法人などの協力がなければ、せっかくの行政の努力も空振りという事態になりかねない。よってそうした根本理念のなかには、住民および関係者の協力を求める市民協働条項もあってよい。県単位で対策を行うことを目的として、行政が自らなすべき「業務」としての責任を自覚し、また県民や関係各組織に協力を仰ぐといった内容をうたった、対策全般の拠りどころとなる条例のようなものがぜひ欲しいのである。こうした視点から本稿は、「地域のパンデミックプランニング」連載のなかの、法令関係の提言の最初として 1)、架空の県を想定し、そのような条例を試作してみたのが、以下に掲載したものである。ただし、当初、インフルエンザ・パンデミックだけを対象として条例にしてみたものの、後にやはりインフルエンザだけに限定するのは少々焦点が絞られ過ぎていて、基本条例にするにはいささか一般の理解が得にくいのではという懸念が生じたため、今回は対象をもっと広げて「大規模感染症災害」対策条例のようなものにしてみた。なお、この試作にあたっては、阪神淡路大震災後に神戸市がつくった「神戸市民の安全の推進に関する条例」を大きく参考にさせていただいている。地震災害とパンデミックでは災害の性質が大きく変わり、具体的な対策の枝葉はもちろん違うのは当然だが、大災害に立ち向かおうとすろ基本的理念は同じであり、結果として震災を大規模感染症災害という言葉で置き換えてもほとんど違和感がなかった。
こんなのは言葉の遊びでしかないといったご批判も聞こえてきそうである。もとよりわれわれは法律家でもなければこのような大それた条例を試作できる能力もない。それは百も承知であり、そうした意味で。この条例試案は、現実的にはわれわれの理想を打ち上げたものとして受け取っていただいて結構である。だが、考えるに、地域のパンデミックプランニングで大切なのは、行政の前向きの姿勢を引き出すことにあると思う 2)。それが成功したときに初めてこのような形の条例ができるのだろうし。そこがわれわれの「地域のパンデミックプランニング」の最初の到達目標であり、かつまた本格的なプランニングの出発点となるのである。今後、各方面に対して地道に啓発、説得活動を続けていくことが、最終的に何とかこのようなものにつながっていってくれればと夢みているのである。前置きが長くなってしまったが、どうかご笑覧いただきたい。
1):今後、機会を得て、指揮命令系、行政の強制権の行使、大規模感染症災害基金等の特別特別の予算措置、医療支援、医療の場における特別な措置等、具体的法令の必要性とその試案、そして実施される際の制限、限界等のディスカッションを順次載せていければと考えている。
2):逆に、条例制定には「それを引き出すための条例制定」の側面もあるという見方もある。
A県民の大規模感染症災害対策の推進に関する条例を次のように制定する。
目次
前文
第1章 総則(第1・2条)
第2章 県、事業者及び県民の役割
第1節 県の役割(第3~7条)
第2節 事業者の役割(第8・9条)
第3節 県民の役割(第10・11条)
第3章 大規模感染症災害に強い安全で安心な地域社会づくり(第12~16条)
第4章 要援護者への配慮(第17条)
第5章 啓発活動、人材の育成等(第18~20条)
第6章 市町村を中心に据えた大規模感染症災害に強い地域社会づくり(第21~23条)
第7章 県民大規模感染症災害の日の設定等(第24・25条)
第8章 A県大規模感染症災害対策に関する懇話会(第26条)
第9章 補則(第27・28条)
附則
かつて何度となく発生した新型インフルエンザの世界的規模の大流行(パンデミック)は、そのたびにかけがえのない多大な生命を奪ってきた。たとえば1918年に起きたパンデミック(通称スペインかぜ)では、私たちの愛するA県にも当時の総人口約95万人の0.5%(4,540人)が亡くなるという未曾有の大被害をもたらしている。こうしたパンデミックは私たちに自然の力の大きさを思い知らさせる健康被害であり大災害である一方で、事前の準備があれば教える命も多いのも確かであり、私たちの祖父の世代の県民は、当時それを痛切に感じたものである。いわば極限の状況のなかで、なす術なく、残念ながら家族・隣人へのやさしさや思いやりさえ失いかけたかつての体験は、助け合いの精神がなくなれば、いかなる危機にも対処できないことをも教えてくれている。
この新型インフルエンザのパンデミックは歴史上、周期的に私たちのまちをも襲ってきた災害であり、再びやって来る可能性が高いものとされているものだが、さらに今後そのほかにもSARSやその他の感染症が世界規模で流行し始め、私たちの県にもやって来て私たちの生活の安全と安心を脅かす事態が生じる可能性も十分あり得る。ここ最近の世界でのSARSの流行や天然痘テロの脅威や鳥インフルエンザの大流行は、まるで私たちA県に住む人間にもそうした感染症の大流行への準備を迫っているような出来事だった。だが、こうした大規模感染症災害に対しては、実際に起きてからでは残念ながらほとんど手の打ちようがなく、実効ある対策のためには事前の準備が必須である。今が、私たちのまちを、暮しを、命を、私たち自身の手で守るために、すべての者が目標を共有し、それぞれの役割を自覚し、大規模感染症災害への対策に力を合わせていく、まさにそのときである。さらにまた私たちは、後の世代に対し「正しく理解し正しく恐れる」こと、そして協働の精神なくして何ものも実現しないことも語り伝えていく必要もある。これらは、私たち今の時代を生きるA県民に与えられた使命である。
私たちのA県を、互いに助け合い大規模感染症災害の災禍を防ぎ、誰もが健康で、安心して暮らすことができる安全な、そして互いに心から愛着をもてるまち、豊かな県民生活をはぐくむまちにしていく決意を示すべく、ここにこの条例を制定する。
(目的)
第1条 この条例は、大規模感染症災害から県民の安全を確保する上で必要な基本理念を定め、並びに県、事業者及び県民の責務を明らかにするとともに、良好な地域社会の形成その他の県民の安全の推進に関する施策の基本となる事項を定めることにより、安全な都県を築き、もって現在及び将来の県民が安心して暮らすことができる社会を実現することを目的とする。
(基本理念)
第2条 県、事業者及び県民は、その能力を生かし、それぞれの役割を果たしつつ相互に補い合い、協働することにより、すべての人が大規模感染症災害の災禍から免れ、安心して暮らすことができる安全なまちづくりを推進するように努めなければならない。
2.県、事業者及び県民は、大規模感染症災害に対する地域の安全を確保し、地域における安心を相互に保証する上で自立の精神に支えられた良好な地域社会の重要性を認識し、豊かな地域活動をはぐくむように努めなければならない。
3.県、事業者及び県民は、大規模感染症災害から得た教訓並びにこれらに基づく経験及び知識を日常生活の中に生かし、非常時に備えるとともに、後の世代にこれらを継承していくように努めなければならない。
(県の基本的責務)
第3条 県は、前条に規定する基本理念(以下「基本理念」という)にのっとり、県民の大規模感染症災害対策を推進するために必要な施策を策定し、及び体制を整備し維持する責務を有する。
2.県は、前項に規定する施策を策定し、及び体制を整備するに当たっては事業者及び県民の意見を積極的に反映するように努めなければならない。
(全体計画の作成)
第4条 県は、基本理念にのっとり、県民の大規模感染症災害を推進するために必要な県全体の計画を作成しなければならない。
2.前条第2項の規定は、前項の計画を作成する場合について準用する。
(調査及び研究)
第5条 県は、基本理念にのっとり、県民の大規模感染症災害対策を推進するために必要な科学的調査及び科学的研究を実施するとともに、その成果等を公表するものとする。
(国等及び事業者との連携)
第6条 県は、基本理念にのっとり、県民の安全を推進するために常に国、県その他の地方公共団体その他公共団体(以下「国等」という)及び事業者との連携に努めるものとする。この場合において、県は、必要があると認めるときは、国等又は事業者との間に県民の大規模感染症災害対策の推進に関する協定を締結することができる。
(県がとるべき非常時の措置)
第7条 県は、災害、犯罪又は事故が発生した場合(以下「非常時」という)においては、事業者及び県民の協力を得て、国等と一体となって、直ちに必要な措置を講じなければならない。
(事業者の基本的責務)
第8条 事業者は、基本理念にのっとり、その事業活動を行うに当たっては人命の尊重を最重点として、その有する施設を安全に管理するために必要な措置を講ずる責務を有する。
2.事業者は、その従業員が安全に関する知識及び技術を習得する機会を提供するように努めなければならない。
(事業者がとるべき非常時の措置)
第9条 事業者は、非常時においては、その能力を活用して積極的に県民の安全に貢献しなければならない。
(県民の基本的責務)
第10条 県民は、基本理念にのっとり、常に大規模感染症災害対策に関する知識及び技術を習得し、身辺の対策に係る点検を行い、その他必要な措置を講ずるように努めなければならない。
(県民がとるべき非常時の対応)
第11条 県民は、非常時においては、相互に協力して積極的に活動しなければならない。
(良好な地域社会の育成)
第12条 事業者及び県民は、地域活動に自主的かつ積極的に取り組むことにより、助け合いの精神に根ざした良好な地域社会をはぐくむように努めなければならない。
(大規模感染症災害に強い安全で安心な地域社会づくり)
第13条 事業者及び県民は、強い連帯感の下に地域で一体となって大規模感染症災害に強い安全及び安心を確保するための活動を行う自主的な組織(以下「地域自主防災組織」という)を形成するように努めなければならない。
(大規模感染症災害に対する地域自主防災組織ごとの計画の作成)
第14条 各地域自主防災組織は、地域における大規模感染症災害に強い安全で安心地域社会づくりを計画的に進めるため、地域自主防災組織ごとの計画を作成することができる。
2.県は、前項に規定する計画を作成しようとする地域自主防災組織に対し、必要な支援を行うとともに、当該計画が適切に実施されるように配慮しなければならない。
(県民団体に対する支援)
第15条 県は、大規模感染症災害に強い安全で安心な地域社会のための活動を行う地域自主防災組織その他の組織に対し、必要な支援を行うことができる。
(県民団体がとるべき非常時の対応等)
第16条 第11条に定めるもののほか、地域自主防災組織その他の組織は、非常時においては、近隣の県民及び国等と連携して組織的かつ自主的な活動を実施するとともに、他の地域自主防災組織その他の組織との連携を図らなければならない。
2.第7条に定めるもののほか、県は、非常時においては、地域自主防災組織その他の組織が応急的な対応を円滑に実施することができるように、必要な支援を行わなければならない。
(要援選者への配慮)
第17条 県は、大規模感染症災害時に高齢者、障害者、児童その他の特に援護を必要とする者(以下「要援護者」という)に配慮した施策を策定し、及び体制を整備しなければならない。
2.事業者及び県民は、地域において要援護者が安心して暮らすことができるように配慮しなければならない。
(大規模感染症災害対策に関する主体的学習)
第18条 事業者及び県民は、あらゆる機会を通じて大規模感染症災害対策について積極的に学習するように努めなければならない。
(啓発活動及び教育の推進)
第19条 県は、事業者及び県民が自主性をもって大規模感染症災害対策を進めることができるようにするため、大規模感染症災害対策に関する知識の普及及び情報の提供その他事業者及び県民に対する啓発活動を推進するとともに、大規模感染症災害対策に関する教育を充実する等必要な施策を講ずるものとする。
(人材の育成)
第20条 県は、大規模感染症災害対策を推進するための活動を支える人材を常に育成するように努めなければならない。
(市町村を中心に据えた大規模感染症災害に強いまちづくり)
第21条 県は、大規模感染症災害に強い地域社会づくりを推進するに当たっては、市町村を中心に据えて、その特性を生かすように努めなければならない。
(市町村ごとの計画の作成)
第22条 第4条第1項に規定する計画のほか、県は、市町村ごとに大規模感染症災害に強い地域社会づくりを推進するために必要な計画を作成しなければならない。
2.第3条第2項の規定は、前項の計画を作成する場合について準用する。
(市町村安全会議)
第23条 県は、大規模感染症災害に強い地域社会づくりを推進する上で必要な情報、意見等を交換するため、市町村ごとに会議を開催するものとする。
(県民大規模感染症災害の日)
第24条 事業者及び県民の間に広く大規模感染症災害から得た教訓を語り継ぐとともに、積極的に防災訓練その他の安全に関する活動を行う意欲を高めるため、県民大規模感染症災害の目を設ける。
2.県民大規模感染症災害の目は、B月C日とする。
3.県は、県民大規模感染症災害の日の趣旨にふさわしい事業を実施するように努めなければならない。
(継承活動への支援)
第25条 前条第3項に規定する事業の実施のほか、県は、大規模感染症災害から得た教訓を継承するための活動を行う者に対し必要な支援を行うことができる。
(懇話会の設置)
第26条 県知事の附属機関として、A県大規模感染症災害対策に関する懇話会(以下「懇話会」という)を置く。
2.懇話会は、県知事の諮問に応じ、大規模感染症災害対策に関する基本的施策及び県域における安全なまちづくりに関する基本的事項を調査審議するものとする。
3.懇話会は、大規模感染症災害対策に関する施策及び県域における大規模感染症災害に強いまちづくりに関する事項に関し、県知事に意見を述べることができる。
4.前3項に定めるもののほか、懇話会の組織及び運営に関し必要な事項は、規則で定める。
(功績者表彰)
第27条 県は、大規模感染症災害に強い地域社会づくりのために顕著な功績があると認められる者に対し、表彰を行うことができる。
(県の職員の責務)
第28条 県の職員は、県民の安全を推進するために、安全に関する知識及び技術を習得するように努めるとともに地域における大規模感染症災害に強い地域社会づくりに積極的に参加するように努めなければならない。
この条例は、平成D年B月C日から施行する。
なお本稿は、あくまでも筆者の個人的見解を述べたものです。本稿を書くにあたり貴重な助言をお与え下さった本研究会員、早川安彦先生に深謝します。
(なお本稿は、メディカルレビュー社 『インフルエンザ』 2005年1月号に掲載されたものです。)
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